ラグビー型チーム医療
…というものを言っていたのは哲学者の鷲田清一先生。病院にいる患者さんが病気になることで困ることや、その解決のために必要なことは医師だけでは解決できないことが多い
ラグビーでは自分では前に進めない時には自分より少し後ろにいる人にパスをして自分はまたいつでもパスをもらえるように後ろに走って回る
そのように医療に携わる専門家がパスを回し合うことで少しずつその患者さんのゴールを目指すのがいいんではないか、というお話。

Contents
□医療は患者の「仕事」の専門的お手伝い
チームと言えば病院内のチーム医療が想像されますが、それが退院したあとであれば、地域医療のプレイヤーが交代する
今度は病気を持った状態で生活していくために、そこにある課題を解決、もしくは納得してもらうために専門家同士が協力をします
ラグビー型チーム医療という言葉を聞いた時に、医療というものに携わっていなくても、
専門家としての生き方、働き方を知れば自ずと行われるべきチームプレーというものがわかってしまうんだなと感心したものです
もちろんチームの中には患者さんも入ってきます
僕ら医療者は、あくまで患者さんの抱える病気によって生じる人生の課題をボールにして解決/納得する場所まで運ぶのを手伝うだけ
その場所で解決/納得したと思うかどうかは患者が決めるので、そのボールを運ぶのは本来患者さんでなければなりません
1人で運べたら僕らはいらぬ存在です
もちろん一人で運べると思っている患者にもそう言う存在です
もちろん患者さんにその判断や行動がとれない場合は、患者さんごと運ぶこともあるのかもしれませんが、やっぱりそこには患者さんにとっての解決/納得の場所に向かっていきます。
そのための方略を考えたり、アドバイスするのが医療者であり、医療現場という場所です。
□チーム内での役割とカバーリング
さて、そうなった時に大切なことはなんでしょうか?
これまでの日本の医療は、医師がその方略を決めて、そこに向かって医師の先導のもとで患者さんを医療者みんなで運んでいました
つまり、患者の意思決定支援からチームでやろうということであれば、十分な作戦会議と目標の統一が重要です
そして、何より重要なのが、それぞれの専門職が何が得意で、何を専門にしているのかをそれぞれが知っていることです
僕はラグビーは得意ではないのでサッカーにしちゃいますが(え)、
相手の攻撃を先読みしてストップをかけるディフェンスや、パスの経由や供給をするミッドフィルダー、素早い動きと相手の裏をかくサイドアタッカーなど、
それぞれチームには役割をもってプレーをする必要があります
その方が効率よく守れるし攻撃できゴールに繋がるからです
しかし、それぞれのポディションだけの役割をこなしたり、テリトリーだけを守ったり、ミスをカバーしなかったらチームが機能しているとは言い難いですよね
医療チームもお互いができること(患者さんの教育や情報収集、ケアなどなどなど)をそれぞれが行う
そしてそれらを共有しカバーし合うことがより効率的にゴールに向かう近道となる
あくまで一つの見方ではありますが、そういうのがチームプレーというお話です
役割の共有をする中で、同じテーマでも患者が看護師に話す話と、栄養士に話す話と、医師に話す話が違うことは少なくありません
より患者さんのことを知り、よりよいゴールを目指すためには、仕事のカバーのし合いと情報共有、作戦会議が極めて重要なのは、本来話すまでもないことでしょう
ただ、これがまた難しいですよね。
それぞれに抱えた業務(役割の仕事とは言い切れないもの)が多すぎて何のための専門職なのがわからないこともよくわかります
ただ何のための病院で、何のために働いているのかを意識しておくことは重要です
□看護の専門性は語りにくい
さて、看護師について。
看護師はチームに仕事を振ったり調整するのは得意なのですが、実は自身の専門性を説明することが極めて苦手です
看護という専門性を言葉にすることがそもそも難しいことが言えますが、それではどうやってチームメンバーに自分の役割をわかってもらうか。
ここまで書いて看護の専門性について書くつもりはないので申し訳ないんですが、
でも、言葉にできないってことは言葉にする必要がないとも言えると思うんですよね。
専門家がそれでいいのかって感じですけど、看護の場合、対象にしているのが病気をもった人なので、人によって必要なケアが異なることが言葉にできない理由だと思います
さらに言えば、入院病棟でしか働いたことのない看護師さんはかもっとピンと来ないことが多い
なぜかといえば、在宅や外来で患者をみている看護師さんは、病気をもって生活をする人として対象者を看護しますが、
入院している患者さんを対象にしていると病気を見ざるを得ないので、頭ではわかっていても、どうしても患者さんの生活者としてのアセスメントが難しい
業務負担が大きく、目を向けて話を聞く余裕がないとも言えますが
つまり、看護の対象者はあくまで生活者としてみないと、その人の看護を語れないというのが正しいでしょうか
□患者の生活者としての顔を知ろう
病気はあくまでその人の付属物、ないし生活に支障を与えている足かせのようなものです
看護師が病気は治るもの、管理できるものという前提で捉えていると看護はできません、絶対に。
その足かせを付けてどうやって生活していくかをサポートするのが看護なので病気中心に患者さんをみてしまうと、医師と見方が変わらなくなってしまう
そして自己管理できない患者をだめな患者にしてしまう
レッテル、お決まりですね
往々にしてこの傾向は病棟看護経験しかない看護師にある(と決めつけています)
これは自分を含めた看護師に対する皮肉でもありますが、期待でもあります
今後医療の中心が病院から地域に移行する中、看護提供は場所を選びません
それもちろん必要だからです
そして入院、外来、在宅、施設にも専門職チームがそれぞれの専門性を生かして活躍する必要があります
そこにはいつも看護師がいることになるでしょう
そうなった時、入院する程じゃないけど病気を持っている対象者をどうやって見るべきかは、これまで通り病棟で働いていては身に付きません
だから病院をやめろというわけではありませんが、
その人が入院するに至った病気をもって、または今後どんな経過を辿るのかを患者さんと共有し、どんな生活をしたいと思っているのか、どんなことに困りそうなのかをしっかり話し合いましょう
それは看護師以外の専門職は難しいかもしれませんし、入院している長く退屈で不安な時に関わる看護師だからこそできることだと僕は考えています
そうじゃなきゃ病棟に看護師はいらないとも思っています
いつか患者さんが自分のゴールに迎えるような絶妙なパスを出せる看護師になれるように、自分が看護師として働く意味を考え続けて、反省(リフレクション)し続ける
プロフェッショナルとはそう言う意味でしょう
□まとめ
今回のサワニ感染拡大に伴い、
ちまたでは人工呼吸器が足りなくて医療崩壊が起こる、
人工呼吸器を量産すれば、検査を増やして治療が可能になる、
といったなんとも言えないコメントがSNSで飛び交っています
これを見てそれを扱う医療者も不足するし、病気は他にもたくさんある、と
さまざまな知識人から反論もあり、
医療や医療者をなんだと思ってるんだと感じざるを得ませんでした
しかしその反面、SNSで看護師がいかにブラックな仕事かを書き込む投稿が多いことについて、
これらが医療者に向けてのものではなく、一般の人に向けたある意味啓蒙のような真意があるのではないかと考えました
そうなれば、勉強目的のアカウントなど、一生懸命に見える看護師の投稿が、その方々にとっては、反論に聞こえてしまうのもうなずけるのです
正しい知識を一般の人にも伝えていくことは重要ですが、
同様に、それらを正しい方法で伝えていくことも倫理を背負う僕らには大事だと思いますけどね
だから、日本で看護師として働く僕らは、いかに医師を含む他職種を利用し、上手に楽しく患者さんをみていくかが、長く続けていくためにも、
そして患者のためにも健康的な働き方なんじゃないかなと思います
専門学校卒で10年目に専門看護師になりました。 普段は、専門看護師として働きつつ、料理や栄養の知識なんかをInstagramやブログを使って発信しています。「はじめまして」はこちらから。